下田の町立て(都市計画)
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| 下田年中行事より | 江戸時代初期の下田古地図 | 佐渡大安寺所蔵大久保長安座像 |
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下田の市街は長方形をなし、通りは整然と碁盤のごとくある。これは近世 初頭に佐渡、岩見等の鉱山開発で功をたて、伊豆金山奉行を兼ねること になった関東三大代官の一人大久保長安の町立て(都市計画)によるもの といわれている。戦国の争乱期、今の下田公園に鵜島城という山城が築か れ、北条一族の支配下にあったが、天正18年(1590)小田原に北条氏が 滅び、徳川家康が伊豆に入部するや否や、家康は戸田忠次を下田5千石 に封じた。忠次は下田並びに周辺の村々を統治、没後は子の尊次がつい だが、慶長6年(1601)三河に転封となる。伊豆代官兼金山奉行に大久保 長安が任ぜられたのが慶長11年(1606)。長安は伊豆の諸金山を開発し 、なかでも縄地銀山は新技術によって飛躍的な産額を産み、鉱夫が集まり 戸数8千と称されるまでになった。ただし縄地は港が小さく、物資の集散港 には下田が利用されて栄えることになる。町立てを得意とする民政の大家 であった長安は約8年下田を納め、その街筋を整え、港には番所を置いて 出入船舶の監視を始めたといわれている。これら戸田家の経営と長安の施 政によって下田の街並みは慶長末年頃までにはほぼ今日並に形成された ものと思われるが、また下田奉行今村伝四郎が、寛永20年(1643)から 2年間費やして行った武ヶ浜浪除けの築造によって稲生沢川の川岸が発達 し、今の河岸通りの町並みが次第に形成されていった。 |
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| 大久保長安寄進鰐口 白浜神社所蔵・県指定文化財 |
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| 資料は昭和63年発行 下田町の民族によるものです | ||